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当時この学科では、世界で最もハイレベルの確率過程論の応用研究が行われていた。
そしてこれらの研究を志す学生たちの間では、H氏やP氏を中心に、I先生が一九六四年にM博士と書いた書物、『拡散過程とそのサンプル‐パス』が輪読されていた。
筆者は、当時Sに滞在中であったU先生(当時T大助教授)を通じて、この本の重要性は知っていた。
しかし、よもや後年金融工学の世界に入り込むとは思わなかったため、このゼミに参加するチャンスをパスしてしまった。
今考えると、全く惜しいことをしたものである。
 そしてそれから約一〇年後に、H氏がこの理論を用いて、後輩のC氏やP氏との協力の下で、画期的論文を書いたのである。
 六年ほど前にSを訪れた折、約二〇年ぶりにH氏のオフィスを訪ねる機会があった。
わが国のファイナンス研究者の間では、神様のような扱いを受けているH氏であったが、彼のオフィスの本棚に、唯の一冊もファイナンスの本が置かれていない。
もともとそれほど沢山の本はなかったがそれを目にして、H氏がファイナンスとは縁を切った、という噂を確認していた。
 講義から戻ってきたH氏は、二五年前の昔話に花を咲かせたあと、“もうファイナンスはやらないのか”という私の質問に答えて、“とうの昔に足を洗った。
もう、あの強欲な人たちと付き合うのに疲れた。
ところで、君はファイナンスをやっているそうだが、あいつらに我慢できるか?”、と聞くのである。
 この言葉を聞いて筆者は、かつてG大学のアラソーブルームが、『アメリカン‐マインド終焉』の中で、”強欲な”金融経済学者を厳しく批判していたのを思い出していた。
 金融工学でなく、理財工学という古典的な名前を用いてきたのは、A氏が批判する「強欲科学」と混同されるのを避けるためであったと言えば、読者諸氏も筆者のネーミングへのこだわりを少しばかり理解していただけるのではないだろうか。
 H氏、S氏、F氏、M氏、T氏、H氏、C氏、P氏という大スターたちについて紹介してきたが、これだけで終わってしまうと、各方面から異論が出るだろう。
 企業財務におけるM理論を組立てた功績で、H氏たちと共にノーベル賞を受賞したM氏たちである。
 しかし、これらの人々の多くは、やはり金融「経済学」者として位置づけられるべき人々であろう。
 そこで、それほど名前は知られていないが、代表的金融工学者として、ここでは資産運用理論のH氏、株価の工学的分析のR氏、多期間ポートフォリオーモデルのM氏らの名前を挙げておこう。
 これらの人々は、すべて米国人もしくは米国在住の研究者である。
しかし、日本にもスターが居ないわけではない。
金融工学に欠かせない大規模シミュレーションのT氏、N氏の両氏をはじめ、数理ファイナンスのK氏、新たな金融システムの構築を目指すS氏らである。
 以上の部分で紹介してきたのは、”標準的な”金融工学の系譜である。
ところがそれらは、有限な資源の効率的配分を考える、いわば伝統的な「経済学ペースの金融工学」であった。
このような研究はもちろん大事である。
しかしやはり工学というからには、これらとは異なる「新しい産業を創造するための金融工学」が、今後より重要になるであろう。
 その一例は、電子ネットワークと金融の融合、すなわち「電子金融工学」と呼ばれる分野である。
既に、インターネットを通じた金融取引は、取引コストの劇的低下をもたらし、多くのベンチャー企業が既存の証券会社に脅威を与えている。
またネットワークシステムは、企業家と投資家を直接結びつけることによって、従来とは根本的に違った直接金融を可能とするであろう。
 金融ビジネスでは、いまS氏のいう「創造的大破壊」が始まっている。
自動車や飛行機の出現が社会を変えたように、金融工学は新たな金融ビジネスの創出を通じて、二一世紀の社会を大きく変えていくであろう。
金融工学は、新しいイノベーションの担い手なのである。
 新聞報道によれば、このところ投資信託の売り上げが急伸しているという。
数年前と比べて全くの様変わりである。
というのも、証券会社がビジネスを独占していたついこの間まで、投資信託はまずは儲からない商品だというのが、専門家の間で定説になっていたからである。
証券会社が売り損なった株を、傘下の投信会社に廻して、これを組合せて素人に売るというケースが多かったためである(ある研究報告によると、日本の投信の平均的収益率は、長い間日経平均の収益を一〇%以上も下廻っていたという)。
 ところが、外資系の証券会社や、銀行などがこの業務に乗り出してから、状況は変わりはじめている。
例えば、日頃利用しているA銀行でも、米国の銀行と提携して、リスクの大きさが異なる五種類の商品を売り出しているし、生命保険会社も本格的にこのビジネスに乗り出している。
 銀行預金が、ダンス預金と変わらなくなって既に五年。
安全第一主義で銀行にお金を預けてきた人々も、まともなリターンを得るには、それなりのリスクを取る必要があることを理解しはじめたのだという。
金利がほとんどゼロである上に、ペイオフで召し上げられるかもしれない銀行預金よりは、投信の方が安全かもしれない。
自己責任で年金を運用しなくてはならないのだったら、今のうちから投信に慣れておこう。
しかし果たして大丈夫だろうか。
 金融工学の専門家である筆者は、なまじ専門知識があっただけに、超低金利がこんなに長く居座ることになるとは考えもしなかった。
まともな資本主義国では、一年以上にわたって、定期預金の金利が三%以下の水準を続けたことは、未だかつてなかったからである。
何故こんな低金利が、われわれの上にのしかかっているのか。
このあたりは、Y氏が、近著『マネー敗戦』で詳しく分析して居られるので、そちらを参照していただくこととして、それでは、老後のために蓄えた貯金の大半をA銀行から引き出して、今すぐA銀行が販売している投資信託に乗り換えるかと言えば、答えは残念ながらノーなのである。
 様々な商品に分散投資して、リスクを一定範囲に抑えながら、なるべく大きなリターンを追求する。
これが資産運用の基本である。
しかし、実際に責任を持って資産を運用するためには、高度な技術が必要とされる。
 国際化する市場の中で、適正な資産運用を行うには、何千種類もの投資対象に関するデータの収集、将来の世界の経済情勢の予測、為替レート変動の予測などを行って、各商品のリスクーリターン構造を測定した上で、これらをどう組合せれば、一定のリスク水準の下でリターンが最大になるかについて、大がかりな最適化計算を行わなくてはならない。
 ところが銀行業界にとっては、このような資産運用技術は余り馴染みのないものであった。
そこで多くの銀行は、実績があるとされている海外の証券会社と提携し、そこが開発した商品の窓口販売を行い、手数料を稼ごうと考えたのである。
ところが残念なことに、このビジネスから得られる収益のかなりの部分は、提携先にもって行かれるのだという。
 確かに、投信先進国であるアメリカの証券会社は、平均的に見ればわが国の業界に比べて技術力が勝っている。

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